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四季の風景・春-桜・舞姫(まいひめ)=日本花の会創立50周年記念の新品種=森鴎外生誕150年の記念樹-今日の一景(245)-小倉北区城内

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今日の一景
(245)

花譜の館・別館」へようこそ。

四季の風景

舞姫
(まいひめ)
森鴎外生誕150年の記念樹


舞姫は鹿鳴館の花娘
(まいひめはろくめいかんのはなむすめ)


イメージ 1



『舞姫』
(まいひめ)

公益財団法人 日本花の会の公式ホームページ によりますと

日本花の会創立50周年記念・新品種『舞姫』の紹介

日本花の会では創立50周年を記念して、新しい桜の品種を作出しました。
その新品種の桜の名称は公募により『舞姫』に決定し、2012年の秋から皆様のお手元に届くように、
当会の結城農場で量産を開始しています

『j舞姫』の特性
花で覆われて開花する八重桜

多くの八重桜は葉が出てから開花しますが、『舞姫』は染井吉野と同じように葉が出る前に花が咲きます。
そのため、樹全体が花で覆われる鑑賞性の高い桜です。
また、寿命が長く、病気に強いエドヒガン系の品種なので、
『染井吉野』で問題となっている「てんぐ巣病」にも罹りにくいと推察されます。
このように『染井吉野』のやや後に開花するやや早咲きの八重桜として、
『舞姫』は桜の名所づくりに適した品種です。

『舞姫』 ( マイヒメ Prunus `Maihime' )

樹形は盃状、樹高は高木性、樹幹は灰色、
成葉は狭長楕円形、先端は鋭尖形、基部はくさび形、鋸歯は単鋸歯で鋭形、鋸歯は単鋸歯で鋭形。
表面は濃緑色で毛はない。
葉裏面および葉柄は有毛、葉身基部に蜜腺がある。
花序は散形状で2~3花、
花の向きは横向き、八重咲きで花の直径は約3,7cmの中輪、花弁は長楕円形で約15個、
蕾の色は紅色(JHSカラーチャート№.9505鮮紫ピンク)、花色は淡紅色(同№.9502淡紫ピンク)。
雌ずいは1~2本、葉化はしていない。
花柱は有毛、がく筒の形は壺形、花の香りは少し有、開花後に展葉、『染井吉野』よりやや遅れて開花する。


と説明されています。


舞姫や川の流れの独逸まで
(まいひめやかはのながれのドイツまで)


イメージ 2



イメージ 3



イメージ 4


平成24(2012)年3月、森鴎外の著作「舞姫」にちなみ
生誕150年の記念樹に
日本花の会の新作『舞姫』
を、小倉城内の鉄門(くろがねもん)の跡地に植樹しましたが、
続いて翌平成25年1月にも
『舞姫』がここ、紫川の西の辺、小倉北区城内の鴎外橋の袂にも記念植樹されました。


舞姫を記すは帰国の潮路にて
(まいひめをしるすはきこくのしほぢにて)
[注・それぞれ古語で、「しるす」とは書きとどめる、「しほぢ」とは海上の通路。海路。の意]


イメージ 5



森鴎外
(もりおうがい)
生涯

北九州市文化振興基金奨励事業
パンフレット

によりますと

   日本近代文学史上に金字塔を打ち立てた文豪 森鴎外 は、文久2(1862)年、森林太郎として島根県津和野町の代々典医の家に生まれました。幼少から神童と称され、史上最年少19歳で東大医学部を卒業します。陸軍軍医副となり、22歳から4年間ドイツ留学で衛生学を学ぶとともに、ヨーロッパの芸術や文化に触れ大きな影響を受けました。異国情緒と浪漫的近代小説の清新な魅力をたたえ、青年のみずみずしい感性を余すところなく投影した小説、ドイツ留学三部作「舞姫」「うたかたの紀」「文づかい」を、明治23年から次々と発表しました。それらの作品はヨーロッパ文化の精神を日本に伝える先駆的役割を果たしました。
  明治32(1899)年、鴎外37歳のとき、陸軍第12師団軍医部長として小倉へ転勤を命じられます。鴎外はここ小倉で明治25年以来手がけていたアンデルセンの「即興詩人」の翻訳を完成させました。また、講義、講演会のほか地元新聞への寄稿など、文化の振興に貢献しました。
   40歳の時、荒木志げ(茂子)と再婚。のちに志げが「小倉時代が生涯で一番楽しかった」と述懐したその生活は明治35年3月、鴎外が第1師団軍医部長として東京に戻ることで終わります。
   その後、鴎外は陸軍軍医総監になり、文芸活動も活発に行っていきます。半自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」、小倉時代の生活を基に書いた小説・小倉三部作「鶏」「独身」「二人の友」、長編小説「青年」「鴈」などを発表します。明治天皇に殉じた乃木希典の殉死に触発されて書いた小説「興津弥五右衛門の遺書」を発表、次いで「阿部一族」他の歴史小説を次々に発表します。「山椒大夫」「高瀬舟」で知足の心、「寒山拾得」で超俗の精神などを描きます。
   また35年間の軍務に終止符を打つころから、「渋江抽採斎」「伊沢欄軒」「北条霞亭」の史伝を発表、古今に比類なき大文章とうたわれました。
   組織の階段を着実に上った軍医、絶えず新境地に挑んでいく文学者、幅広い友人や後輩たちに畏敬された知識人、妻や母親、子どもたちを愛する家庭人、多面体の人生を多彩に生き抜いた森鴎外は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残し、大正11(1922)年7月9日、60年の生涯を閉じました。

と記載されています。


舞姫の陽に囃されて踊りけり
(まいひめのひにはやされておどりけり)
[注・「はやす」とは、声を出して調子をとる。また言いはやす。の意]


イメージ 6




イメージ 7

画像の橋が、「鴎外橋」です。

ご完読ありがとうございました。
(梨雨)


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