今日の一景
(243)
「花譜の館・別館」へようこそ。
四季の風景
春
桜
染井吉野
(そめいよしの)
と
小倉城
(こくらじょう)
Ⅰ
風雲を断ちたる花の天守閣
(ふううんをたちたるはなのてんしゅかく)
[注・「ふううん」とは、古語で口語とも、風と雲。自然。大志。の意、であるが
これに加えて、口語では、事の起こりそうな情勢。の意をももつ。
例として「風雲急を告げる」がある。
「たつ」とは古語で切断する。終わらせる。
「たる」は完了・存続の助動詞「たり」の連体形で~してしまった。~ている。~ていた。の意]
1
小 倉 城
別名
勝山城
(かつやまじょう)
指月城
(ゆびつきじょう)
湧金城
(ゆうきんじょう)
南蛮造りの天守閣
俗に「南蛮造り」と呼ばれる小倉城は響灘 (ひびきなだ) に臨み、紫川と板櫃川 (いたびつがわ) を外濠とした平城である。城跡 (しろあと) は北九州市の中心にあり、市庁舎や市立図書館、歴史博物館、公園などの敷地となっている。
小倉城は別名、勝山城、指月城、湧金城と呼ばれ、規模は外曲輪東西2キロ、南北1,3キロ、本城ならびに外曲輪には148の櫓、門は大小合わせて48、矢狭間 (やはざま) は総数3271、石垣の高さ17メートルであった。現在は、昭和34年、昔どおり復元された南蛮造りの天守閣と着見櫓 (つきみやぐら) がある。
小倉城がこの地に築かれたのは、約700年前の文永 (1264~75年) の頃といわれるが詳細は不明である。
歴代藩主は、相次ぐ地方豪族の割拠で幾度か交替しているが、現在の規模にしたのは細川忠興 (ほそかわただおき) である。
慶長5 (1600) 年10月、関ヶ原の功によって豊前1国と豊後2郡、合わせて30万個5000石を賜った忠興は、最初中津城に入城した。しかし、中津城は小規模のうえ、交通が不便なので、本土と九州を結ぶ要衝の地小倉城址を大改造しようと決意した。
工事は、慶長7年より始まり、慶長12年に完成した。外人宣教師の土木技術が用いられ、「南蛮造り」 と呼ばれる独特の建築法であった。
天守閣は、23メートルの高さをもつ5層6階建て、4層と5層の間に屋根のひさしがなく、しかも5層目が4層目より大きく張出し、四方は白壁であった。
細川氏は、寛永9 (1632) 年、肥後の熊本に転封され、播磨国から小笠原忠真が15万石の領主として入城した。小倉城主は九州探題として幕府の信任も厚く、城下はますます賑わっていたのである。
天守閣は天保8 (1837) 年1月、消失してしまい、次いで慶応2 (1866) 年夏の長州戦争の際、長州藩と戦って敗れ、同年8月1日、自ら城に火を放って田川郡香春に退いてしまった。小倉藩応援の細川藩、立花藩などが急に帰国し、幕府から派遣されていた総督をはじめ軍艦も夜陰に乗じて逃走し、小倉藩が孤立したためといわれる。
【廣埼篤夫著「福岡県の城」海鳥社出版】より
桜満つ代わる城主の数多なる
(さくらみつかはるじゃうしゅのあまたなる)
2
花の下火宅の人の揺きをり
(はなのしたくゎたくのひとのあきをり)
注・「くゎたく」とは
①仏教で、この世の、汚辱と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃え盛る家にたとえた語。
②現世。
③娑婆。
の意
「あゆく」とは古語で、ゆれ動く。ゆらぐ。動く。の意
3
本丸を差し隠しけり夕桜
(ほんまるをさしかくしけりゆふざくら)
[注・「ほんまる」とは城郭の中心となる最も主要な部分。多くは天守閣を築き、城主が居住する、
「さしかくす」とは、(扇や袖などを)かざして、顔などを隠す、の意]
4
5
大濠の隅に彩なす花筏
(おおほりのすみにあやなすはないかだ)
[注・「あやなす」とは古語で、美しくいろどる。の意]
6
なお、全ての画像は本年4月2日現在のものです。
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(梨雨)