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桜・染井吉野(そめいよしの) と 小倉城・2019・・Flower photography by Riw №326・小倉北区城内

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花譜の館・別館
House of flowers tablature
annex


Flower  photography  by  Riw 
№_326

染井吉野
(ソメイヨシノ)
小 倉 城
(こくらじょう)


イメージ 1


ソメイヨシノ
[染井吉野]

学名
Prunus × yedoensis
分類
バラ科 サクラ属
葉の展開に咲き立って花を咲かせる。
花色は淡い紅色を帯び、咲進むにつれ白くなる。
一総につく花の数は3・4輪。
葉の縁には鋭い重鋸歯(大きなぎざぎざに更に細かなぎざぎざがある)がある。
大島桜
(オオシマザクラ)
江戸彼岸桜
(エドヒガンザクラ)
自然交配種
江戸時代末期に江戸染井村(現在の東京都豊島区)の植木屋から
「吉野桜」
として売り出されたのが由来。


イメージ 2



小倉城の公式パンフレット 小倉文化史の散策・小倉城 によりますと


小倉城をとりまく歴史

   小倉城の歴史は、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(ただおき)によって、1602年に本格的に築城されました。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保政策を実施、外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。細川氏熊本転封(てんぽう)の後には、播磨(はりま)国明石から細川家とは姻戚(いんせき)関係にある譜代大名の小笠原忠実が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。この時期小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。小笠原忠苗(ただみつ)の時期には城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣(てんしゅかく)は再建されませんでした。幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退をせざるをえませんでした。明治10年の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯(ちゅうとん)していた歩兵弟14連隊(れんたい)が、乃木将軍に率いられて出征(しゅっせい)しました。その後は、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。太平洋戦争後は米国に接収(せっしゅう)されましたが、1957年に解除され、1959年市民の熱望によって天守閣が再建されました。この天守閣は「唐造りの天守」と呼ばれ、4階と五階の間に屋根のひさしがなく5階が4階よりも大きくなっているのが特徴的です。また城の石垣は切石を使わない野面(のづら)積みで、素朴ながらも豪快な風情にあふれています。

と説明されています。



イメージ 3

全てり画像は、福岡県とは独自の、市民の要望で北九州市長が市の、桜の開花宣言直後の
3月27日
撮影したものです。
本日のお運びまことにありがとうございました。
梨雨


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